
回顧録 ~入院記~
ここで私の人生で切り離せない病歴(入院時代のあれこれ)を記そうかと思います
人生で初めに大病したのは幼稚園の年長(5歳)でした。体は弱いほうでしたが基本元気な性格でした。
夏休みに祖父母のいる田舎に家族で出かけ数泊した際です。外を走り回っていてふと気づくと両足の膝下が痒くなり、多く蚊に食われたなと放っておきました。ところが東京の自宅に帰ってから熱が出て体がだるくなり始めたんですね。ただの風邪ではないようで父が夜に病院に連れて行ってくれたのを覚えてます。
さらに翌日改めて母に近所の大きい病院(佼成病院)に連れて行ってもらったところ何やら慌ただしくなり、車椅子に乗せられ連れて行かれたところは外来ではなく病院の廊下ですごく不安になったのをよく覚えています。それからすぐに小児科病棟に連れられて行き訳が分からぬまま泣きながら病室に入れられてしまいました(後日聞いたところ紫斑病で伝染するためベッドから降りることも制限されました)
活発な年ごろで非常に退屈だし、何より入院も初めてで不安でしたが4人部屋で同年代と話せるだけで心強かったし、おもちゃを交換して遊べたのが楽しかったですね 夏休み期間はずっと病院で過ごし、(記憶では2~3週間だったかと)退院後も少しのあいだ自宅療養があったと思います 余談ですが病院食で苦手なセロリがサラダに出続け、嫌々食べてたらいつのまにか克服してしまいました おもちゃのことで喧嘩したり小児病棟の消灯時間が19時だったため当時夕方やっていたドラえもんを見ることは出来ましたが19時からのアニメ「がんばれ元気」が見られず看護婦さんに部屋のみんなでお願いしましたが許されずガッカリしたのを覚えてます。一人だけ優しい看護婦さんが内緒で見せてくれ みんなで喜んだ日もありました( ´∀` )
退院後は日常に戻りましたが紫斑病の症状(最初は蚊に食われたように痒くなり熱が出てだるくなる⇒蚊に食われた痒い部分 薄皮と皮膚の間に血だまりができ破けて瘡蓋になりそれがとれるときれいに治る)を経験することができました。
次に入院したのはその後の入院人生の起点になる小1(6歳)の冬(昭和56年1月15日)の交通事故ですね。これは祖母の還暦祝いだと聞いてますが祝いで祖父母のいる田舎へ向かう途中、高崎の伯母の家に立ち寄り母が土産を渡しに行き、父と兄と私は車で待つことにしました。
私がすべて悪いのですが子供ながら外の空気が吸いたくなり外に出ていたところ車に轢かれてしまいました(出たついでに母たちのところに行こうとして轢かれたのはずいぶん後に思い出しました)当時高崎の国立病院で3ヵ月も意識不明で親兄弟・親戚にも多大な迷惑をかけたうえ、のちに親の離婚にまで発展させてしまったこの件は一生悔いてもやまれぬ話です 1月15日の事故から次に意識が戻り記憶にあるのは3月中旬「もうすぐ桜が咲くから見に行こうねと言われ病室のベッドで横たわり輸血されつつ、父が泣いてた記憶がうっすらあります ← すぐに意識が混濁し次にはっきり覚醒したのは4月の中旬近かったようです。
目覚めてすぐには「ここはどこ?」って感じでした 桜も散ってしまいましたが、付き添っていた母に事情を教えてもらい高崎で事故にあい入院していること 3か月たっていることに驚愕しました ← 大きい事故では事故前後の記憶を喪失するそうです(特に頭部を強打しているため)一番ショックだったのは自分の体が動かなかったことです(15分くらい泣いてたかな 将来25歳くらいまでの人生をシミュレーションしたのを覚えてます) 首から下が動かないためベッド柵に手が触れるように動かす訓練からですが少しずつ腕が動かせるようになり、寝返りを打てるようになり、立ち上がり(ベッド柵につかまり立ち)可能になったところで車椅子になれました。
7月の中旬ごろには沢渡温泉病院(現 群馬リハビリテーション病院)へ転院できました。国立病院では親戚のみんながお見舞いに来てくださり車椅子で涙が止まらなかったことがあります。加害者の方も毎日のように病院へ来てくださり、誠意のある方だったと記憶しています。ケーキをよく買っていただいて子供心に嬉しかったです。同級生が高崎の病院へお母様と見舞いに来てくれた時の感動は今でも忘れません。この段階では歩けるようになるとは考えられませんでした。
転院後は地方のリハビリ病院のため祖父母と同年代の方ばかりだったな(小学2年生には少し寂しい環境でした)学校をずっと休んでいるため病院の事務の方に勉強を習っていたのがこの頃です 子供は私一人ゆえお菓子をもらいながらリハビリに挑んでました。
山の中のリハビリ病院ゆえにカブトムシやクワガタをいただいて飼ったりカメをいただいたことや蚕をいただき繭まで育てて面白い経験が多い病院でした。また院内で面白いおじさんだった方がお酒を飲み暴れてしまい強制退院というアクシデントや当時近所にあった養豚場までみんなで歩いて見に行ったこと(リハビリを兼ねて) 退院前日にワンカップを飲みよろけてしまったお爺さんいろいろな方がいました。
杖を突いての歩行練習を嫌がった際に仙人のような杖を突くお婆さんに聞いた話で諭されたこと 今でも教訓となってます。たくさんの学んだことはこの後の障害者人生で大きく役立ちました。またこの頃まで母がずっと病院で付き添ってくれていたため大変苦労をかけたこと その恩はいまでも忘れません。
かくして11月30日に退院でき、しばらくは祖父母の家(母の実家)に母と居る状態でした。祖父母だけでなく従兄弟や伯父伯母もいたので心強かったのを覚えています。兄も東京から一時こちらに転居してきていたので寂しさはなかったですが、自分の先行きが不安な時期でした(歩いて復学できるか将来働けるか車が運転できるか?恋や結婚・子供・家庭は夢見るだけ苦痛になるだろうことは感じてました(‘◇’)ゞ)
年明けに東京へ戻り2年生に復学(病院での勉強 九九を覚え、漢字を習い算数も教わっていたため留年せず)出来ました。ひとえに病院のスタッフさんのご厚意のおかげで感謝しています。
東京へ戻ったのちは父母の離婚に伴い同じ学区内のアパートに住みましたが、足の骨折を治すために入れた金属(プレート)を外す手術+骨の成長を抑制する金属を入れる手術で3年生の12月1日より翌3月3日まで慶應病院へ入院しました。病院での年越しはせず外泊で自宅に戻ったのを覚えてます。この際は完全看護でもあり、幼稚園以来の一人で入院生活でした。はじめは少し寂しいものですが、大人の病棟ですから同部屋のおっちゃんたちと親しくなりいろんな看護婦さんたちにもよくしていただきすぐに馴染めた気がします。この頃覚えたのが病院を隅から隅まで探検してみることです。
もちろん入っていい場所までですが特別に病院の屋上にも看護婦さんや数名の仲間で入れていただき今考えるとレアな経験です。退院の日には看護師見習の方たちがお花を持ってきていただいてすごく嬉しかったのが思い出です(この時代の看護婦さんのイメージやさしく細やかで包容力のある女性)がのちの女性像になったような気も・・・それから小学高4年生になってから足に入れたプレートを外す手術のため夏ごろに再入院をしました。
この時は北里研究所病院だったため再度病院探検したのを覚えてます。この時は入院した日に病院に咲いていた「桔梗」を描き、朝日生命の「子供絵画コンクール」出しました。それが人生初の入選だったかな( ´∀` )ここでもいろんなおっちゃんや若い兄さんとつるんで面白かったです。からかわれすぎて怒ったり。霊安室付近まで肝試ししたりいろいろありましたが、普段ひょうきんなおっちゃんが歯を食いしばり本気で歩行訓練している姿にはのちの私に教訓となりました。今の私に通じるものがあります。
ここを退院(7月中旬~9月頃)してからは通常運転で学生生活をしていましたが中学2年の際にブロック注射のため慶應病院で1泊入院をしました。左足でしたが、きつかったのを覚えてます。この時の担当看護婦さんが相田翔子似で綺麗な方でした ( ´∀` )
翌年には受験もあるので全集中したかったのですが、中3の5月に頭が痛く体もだるくなり緊急入院になってしまいました。交通事故にあった際 脳挫傷になり水頭症を患い左側頭部から腹部へ管(シャント)を通していたため不具合が出たのかと思われましたがその時は収まり1週間で退院できました。
時は下りまして二十歳過ぎた頃です。私の左足と腰の曲がりを治し大腿骨の脚長差を治療する手術をすることとなりました。正直かなりの長期入院になるのは見えてましたので覚悟を決め、事前に仕事も周りの人以上に窓口に出続け体に仕事を浸み込ませるようにしてました(‘◇’)ゞ
慶應病院では病室が空き次第 連絡が来て翌日入院を!という無茶ぶりな時代でしたから事前に予定も立てられず職場にもご迷惑をかけてしまい大変申し訳なかったです。
すでに二十歳で新日美展にデビューし、新日本美術協会の会員でしたので入院前に出品用の大きい絵を事前に描き終え、退屈な入院生活用にスケッチブックと水彩クレヨン 絵の素材になる動物の写真誌(子猫・子犬)も揃えていました。その後動けない状態が長引くことも想定し、退院後に使える画材や入院中に事前に用意した絵を遠隔出品できるように身内にも伝え用意しました。
病院から連絡が来る直前の時期でしたが職場のそばにある画廊で個展も開催し多くの方に絵を見ていただきました( ´∀` )
話がそれてしまいましたが、22歳(高井戸出張所勤務3年目)の初夏に病院から連絡あり入院できました。今回は膝上の骨を切断少しずらしてビスで固定し膝上の筋と付け根の筋を切る手術です。しっかりした担当医の方で過去一信頼できる先生でした。手術は成功したのですが今思い出しても悪夢なことがあります。膝と腰の曲がりを治すため骨切り+筋切り手術直後(翌日)からうつ伏せ+足首と腰へ30㎏ずつ重りを乗せられるリハビリでした((+_+))一瞬で搾れるくらい浴衣が油汗びっしょりで本当の激痛時は声が出ず息が止まり詰んだと思うほどになる((+_+))いい経験?危険な経験でした。
そのうつ伏せで重りを乗せらるリハビリも朝晩1時間ずつ2回していたため通称カメさんと呼ばれるリハビリにも2週間ほどで慣れました。苦し紛れにうつ伏せ状態でも痛みから意識をそらすためスケッチブックに絵を描き続けてました(うつ伏せ状態)
今考えるととんでもない執念で絵を描いてるようですが、本人的には絵を描いてる時の集中力で痛みを飛ばせる麻酔みたいな感覚でした(‘◇’)ゞ
ずっと大部屋でかわいい子猫や子犬ばかり描いているとなぜか人前で絵を描くことに慣れていきまして・・・いつのまにか描いた絵を欲しい人に差し上げたりしてました(リハビリ病院退院時までに十数冊のスケッチブックがほとんど空になりました(‘◇’)ゞ)
当時は同部屋の若いガン闘病中の方やリハビリ中 私の絵を見て喜んでくれた少女(全身末期がんで泣いてた子供)にもかわいい猫の絵をプレゼントしたことがあります(絵描きの私にはそんな癒しの真似事しかできず良かったのか悪かったのか(‘◇’)ゞ)
7月初めころには系列の伊豆月ヶ瀬リハビリテーション病院へ転院となりました
転院前夜の出来事は 回顧録~KATAWA伝~の恋愛編に出てたりします(‘◇’)ゞ
転院当日は同部屋の方たちが車で旅立つところまで見送ってくださりまして・・・ちょっと目の奥が熱くなってしまいますね(‘◇’)ゞ
かくして伊豆の月ヶ瀬へ行く道中にもひまわりが咲いてまして 前夜に先輩が生けてくださったひまわりが重なりウルっとしてしまったのを覚えてます 月ヶ瀬到着直前にお寿司屋さんで母の連れ合いの方より高級寿司をごちそうになったのが美味しかったな( ´∀` )
月ヶ瀬到着後は新たな病院でリハビリを始めましたが、ここでもうつ伏せリハビリ(カメさん)重りをのせられ横になってると外が救急車で騒がしいことがありました(‘◇’)ゞ←後に書きますがホラーな話につながります( ゚Д゚)
ここでもリハビリの合間に屋上で風景(山間に流れる川)を描こうとスケッチブックを持ち車椅子でエレベーターへ乗った際です「あなた絵を描くの?見せて」と言われお見せしたところかわいい猫の絵でお褒めいただきまして・・・( ´∀` )屋上で絵を描き終え部屋に戻ったところからでした(‘◇’)ゞ口コミで絵を描いてるのが広まってしまいました
翌日からは「うちの猫を描いてほしい」「うちの犬を描いてほしい」「うちの子供を描いてほしい」←赤ちゃんの時と嫁ぐ前の時2枚 「屋上から見た風景を描いてほしい」が一日2、3枚描く日が続くことになります!当時 公務員(役所勤め)ですし売ることはできませんので、食料やドリンク(酔うものもあったかな( ´∀` ))をいただいていました
リハビリも慣れたころ懐かしい顔に会い驚いた記憶があります 転院前の慶應病院にて同部屋だった方が術後のリハビリで月ヶ瀬へ来られたんですね( ´∀` )
すごく人柄のいい方で月ヶ瀬では一つ下の階に入られてました のちに車を持ち込み達磨山やループ橋 河津桜に天井画のあるお寺 天城トンネルいろいろ連れて行ってもらいました( ´∀` )また同部屋の仲間や退院祝いでアユの塩焼きで一杯やったのはよき思い出ですね←ホントは内緒です(‘◇’)ゞ
配給されたドリンクをオロナミンCの瓶に入れて寝る前に飲んだり(匂いが漏れないように)若気の至りですね(‘◇’)ゞ
地元の入院患者さんで旅館をしてる方に伊勢えびをいただいたことや退院直前の頃には車いすで山道を行き往復三㎞ みんなで焼き草餅をたくさん仕入れみんなで退院祝いを開いたのはいい思い出です 手動車椅子でよく行けたなと今考えると無茶ぶりですね(‘◇’)ゞ
同部屋の方や多くの方とお話しした際に怖い話になりました 先述の救急車騒動のことを教えていただきました ← 転院後うつ伏せリハビリ中で知らなかったのですが二つ下の階で飛び降りがあったとのことでした( ゚Д゚)
私は零感なもので気づきませんでしたが、隣のベッドにいた霊感アリの兄さんがベランダに行きたくないとか、売店の外には行きたがらない理由がやっと理解できました
現場の数m並びの場所ゆえ感じるものがあったのでしょう 雑誌のある場所も現場に近いため気持ち悪くなると言ってました(‘◇’)ゞ
私やほかのおっちゃんたちは零感なもので夜に現場に行き写真を撮ってきたのですが・・・一見すると何も映ってませんでした( ´∀` )ホッとしたのも束の間でいろんな方に見せると地面から手が2本出ていると( ゚Д゚) 私の足が写真に写ってたため・・・退院後写真はお焚き上げしに花園神社に行きました(‘◇’)ゞ
別の場所で複数の方が同じことを言うのでヤバいなと思い、別の写真(友人からいただいた沖縄の写真です)と一緒にもっていきました
皆様も飛び降り現場など(一か月以上 土が湿ってるような場所)にはお気を付けください!
一つ忘れていましたがこの頃に先輩(回顧録~KATAWA伝~恋愛編)への消せない思いを封印するため広報誌に載ってた先輩を全身全霊で描きスケッチブックごと封印しました 切ないケジメですね(‘◇’)ゞ
12月になり年末も近づいたころ病院での年越しを避けるため退院交渉(元気です アピール)を始めXmas前には退院し東京へ戻ることができました
次の入院は翌年の6月で左大腿骨に入れたプレートを外し2か所の骨を切断 装外固定器にて1日1mmずつ骨を伸ばす(脚延長)でした
慶應病院での初めての手術時に左足の曲がりを抑え歩行可能にするためプレートを入れ左大腿骨の成長を抑えたため、脚長差が大きく長期間寝たきりになる大手術でした
この時も入院のためフル装備(スケッチブック・水彩クレヨン・素材写真集)と新日美展出品用の絵も準備をしておきました 前回の入院時に同部屋のM氏よりたくさんの動物写真のテレカや素材をいただきましたのでそちらも素材にして絵を描きました( ´∀` )
入院して驚いたのは前回入院した際 隣のベッドだったK氏がいらしたことです
前回は肩の腫瘍切除をし元気に退院された方でしたので彼女さんもいて・・・事情を聴くと腫瘍が転移したため再手術治療とのことで大変そうでした 私も今回は手術直後は激痛で同部屋の若い方 骨肉腫で数回手術してる方のお話もあまり親身に聞いてあげられなかったのを覚えてます
また一日に朝晩二回 装外固定器で切断した骨を引きはがし伸ばすのですが筋肉や神経も引き延ばすため初めの二、三か月は激痛で夜眠れなかったな( ゚Д゚)
慶應病院には3ヵ月しかいられないので寝たきりでリハビリもできないのですが再度 月ヶ瀬リハビリテーション病院へ送られました
ここはリハビリする病院ですので寝たきりでいるだけだと非常にやりづらかったです
寝たきりの方の病室ですので高齢の方しかいませんし、その部屋ですと風呂や洗髪もできない状況でした 自身で清拭し、水のいらないシャンプーを使うくらいでしたし散髪できなかったので人生初の肩まで髪が伸びてしまいました(‘◇’)ゞ
本来は固定器を外す手術は慶應で行う予定で約束していましたが月ヶ瀬の医師が勝手に進めてしまいそうでしたので慶應の医師に伝えその手術は慶應病院で行うことになりました( ゚Д゚) ← 手術ミスで〇殺者も出てるところで患者の扱いに恐ろしい点がたくさん見受けられましたので(‘◇’)ゞ
この時の入院では月ヶ瀬で寝たきりのまま年越しでしたが、大晦日におふくろとお付き合いされている方が来てくださりステーキを食べられ救いでした( ´∀` )感謝です 地元の入院患者さんは正月は家に帰る方が多かったですね
1月に東京に戻り慶應病院で装外固定器を外しましたが手術後に祖母が亡くなりギプス状態の私は葬儀に出れなかったな お祖母ちゃんごめんなさいm(__)m
ギプス状態の頃 担当医(助教授I・S氏)によりベッド柵につかまり立ち上がり少しずつ体重を乗せるよう指示がありました(いよいよギプスを外して立ち上がる準備段階かと思ってました)ところがそれを始めて一週間 左大腿骨が膨れて固くなりだしました すぐに医師に確認したところ脚延長し出来て間もない柔らかい骨が曲がってきているとのこと( ゚Д゚)
助教授以下の二人の担当医に確認すると荷重をかけるリハビリは早すぎるとのこと 至急何とかするよう伝えると再手術となり今度は出血多量で輸血を要する状態にされました 正直これが天下の慶應病院か!と〇されてしまう恐怖がありました
手術の翌朝 髭をそるため鏡を見ると血の気を失い土気色の自分の顔を見てこの病院の怖さ 治療ミスを患者の責任にする(助教授の指示で患者を追い込んでも黙認し、責任転嫁する体質)を知りました( ゚Д゚)また再手術後 胸元から左足首までギプスで固められ(手術前は左足のみ)ましたが呆れました
助教授I・S氏は立ち上がりリハビリの指示を出しリハビリセンターへ連れて行かれました ⇒ この時はPT(足のリハビリ医師)も断り返されました( ゚Д゚)
同じ轍を踏むI・S氏はいかに本を出すような素晴らしい医師かは知りませんが患者をモルモットとみているのでしょうか?恐ろしかぎりです
この時期には腫瘍で同時期に入院していたK氏の状態も悪化し肺の手術後 婚約者に別れを言う苦しい心境も聞きみんな苦しいなか闘ってる状況でした 本当は外出許可なしで映画に行くのはアウト(体調急変を危惧すると)ですがK氏の気持ちを思うと切なくて・・・それ以降はどこか寂し気に見えましたが私もギプスがとれ車椅子で動けるようになってからできるだけ声をかけるようにしてました
話はさかのぼりますが再手術後ギプスで固められた状態の時に病院も医師も信用できず病院脱走(ギプスで固められ出来ませんが最悪・・・)と出血多量で土気色になりながら考えてたころですね 洗濯物を取りに来たおふくろが家族ぐるみでよく飲みにも行ってた知人の妹さんを連れてきました 私は会ったことないとは思うのですが「お兄ちゃん!」なんて呼ばれて面食らったのをよく覚えています(‘◇’)ゞ
翌日からおふくろの代わりにその子Rが来てくれるようになり心身ともに弱ってるときに励まされたら普通に気持ちが傾きそうになりました
「回顧録~KATAWA伝~」恋愛編に載せてありますがこの体の者が健常の5つも若い娘さんになど「己の分際を知れ」と自分に言い聞かせつつ、健気に毎日来られるとグッと来てしまいました(‘◇’)ゞしかしカマをかけて聞き出すと兄への思いがあるようで・・・(‘◇’)ゞ
前回の入院時に先輩への思いを断ち切るため先輩の絵を全身全霊で描き封印したばかりでまたかと思いましたが・・・今回は土気色の自分に生気を取り戻させてくれただけでもRに感謝です( ´∀` )
その後は頻度は少なめにたまに見舞いに来る際には兄との揉め事も聞いてやったりしました
私のほうはギプスがとれしだいリハビリのため大久保病院に移り(この時は月ヶ瀬を拒否しました)2か月ほどいたかな
その間に遠隔出品(事前に描いた絵を身内に出してもらう)で「日本の自然を描く展」に「黎明」が入選しギリギリでしたが外出して見に行くことにしました
Rも行きたいと言ってくれて一緒に行く予定でしたが集合時間の間違いですれ違ってしまいました Rにはごめんなさいm(__)m・・・でも兄のこともあるしむしろ良かったのかな(‘◇’)ゞ
大久保病院のリハビリを終える頃ですね よく外出届をして実戦でアスファルトの道を歩いたり新宿の紀伊国屋へ行ったり 一人で無茶ぶりしてました(‘◇’)ゞ
病院の廊下を10周するよりアスファルト上を歩いたり人込みを交わして動くこと さらに段差や傾斜のある道(健康な方は苦にならないであろう場所ですが杖を突いてのヨロヨロ歩きだとハードな修行)を行くほうがはるかに実戦向きなリハビリになります!
ただし一度でも転倒し歩行不可になれば救急車騒動 再手術もありうる背水の陣の一人修行なのでおすすめはしません!
20代半ばの若さと幼少期からの入退院リハビリ経験から退院後の実戦向けリハビリの重要さとそのリスクを理解してました ← 仕事を引退しいよいよ歩きづらくなった今年の冬から必死に朝の歩きこみをしてるのも経験からですね( ´∀` )
大久保病院は9月中旬に退院しましてすぐに職場に顔を見せ職場復帰しようとしたのですが上記の理由で少し職場への道を歩こうとしたら転倒し足をひねりやらかしてしまいまして( ゚Д゚)・・・数日で回復し復帰はできました
人生最大の難所?とも言うべき脚長差を埋め左ひざと腰の曲がりを治療する手術は2年越しで終わりました 寝たきりで激痛のうえ風呂も散髪もなく治療ミスに再手術 都合よくごまかすため系列病院へのたらいまわし・・・よく耐えられたなと(‘◇’)ゞところが退院後職場復帰してみれば( ゚Д゚) ← ここは「回顧録~KATAWA伝~」に記載してあります
これは余談になりますが職場復帰を果たしたのち新日本美術協会の先生からご紹介いただき東松原にある「カフェせんじゅ」にて一か月の個展をできることになりました 先の入院中で会った方や職場の方 同期の仲間 お世話になった医師 皆様を招き個展をさせてもらいました( ´∀` )
大勢の方に来ていただき楽しんでいただけたことや作品の感想を色紙にコメントいただけたことがすごく大切な記念になりました ← ここを含め全11回の個展の色紙や芳名帳は「たからもの」にしてます( ´∀` )
「カフェせんじゅ」での2回目の個展で月ヶ瀬の病院で知り合った同じ身障の方がいまして(のちに私と同じ1種2級と判明)ご招待させていただきました
こちらは亡くなった愛犬の絵を描いて差し上げたのがきっかけで、のちに結婚相手となるとはこの時には思いもしませんでした
話を元に戻しますと出張所 ⇒ 障害者福祉係 ⇒ 区外納税係と異動をした頃のことです
歓送迎会にて「この秋に結婚をしますのでいろいろとご迷惑をおかけしますが・・・」と話した途端に・・・「エッーーー!」と言われてしまい逆にびっくりしてしまいまして(‘◇’)ゞ
その歓送迎会の数日後 職場で吐き気と頭痛でダウンしてしまいました 地下の厚生室で休ませていただいても回復せず帰宅し病院へ行きましたが「疲れでしょう2,3日で治ります」と言われロキソニンをいただき帰宅しました
翌日には上体を起こせぬほど頭痛と吐き気がひどくなり眠ることができないほどになりました 薬を飲み3日経つ頃にはさらに痛みが増し脳を包帯でぐるぐる巻きにして24時間締め付けられるような痛みで再度タクシーで慶應病院へ行きました 状態を伝えると「原因不明だが1週間ロキソニンで様子を見ましょう」とのこと
この頃は異動したてで「仕事を覚えなきゃ!婚約したばかりでくたばれない!!」それだけで耐えてました( ゚Д゚)
言われた通り1週間耐えたものの治らず再度病院へ行くころには物が二重に見えるようになってました 頭痛と吐き気と視覚異常を訴えたところしばらく待たされまして・・・嫌な予感が的中してしまい即入院でした( ゚Д゚)
C_T検査をして安静状態でしたが、看護師に付き添われ職場に電話報告中とてつもない頭痛で意識が落ちそうになりました ギリギリで「あ た ま い た い!」と声を上げたところ通りがかった方がナースステーションに伝えてくださりストレッチャーに乗せられ緊急で検査室へ( ゚Д゚) 先生方の声を覚えてますが「脳圧38 高いです!」とのこと
正直かなり落ち着いた段階で検査室へ行ったので電話口で意識が落ちそうなときはもっと高かったのかもと思いました
病室へ戻り医師が来ると説明をされました 事故にあった際に入れた頭部から腹部へのシャント(髄液を通す管)が断裂し頭部と視神経を圧迫していると・・・それを受け仕事もあるので頭部の手術(丸刈りにしての手術)は避けてほしい 腹部から背中へのシャント術でお願いしますと伝えました
医師も詳しいことを聴くと目が泳いで蓋を開けねばわからない状態だなと思い朦朧としながら腹を括ったのを鮮明に覚えています(ちなみに母は犬に餌をやると言い帰ってしまったので察したのかもしれません)
すぐに緊急手術になりオペ室に入る際には兄に「とっとと終わらせて銀だこ喰いに行ってやる!」と言い残し運ばれていきました ← 食欲どころではありませんでしたがなぜか一瞬浮かんだものが「銀だこ」でした(‘◇’)ゞ
次に目覚めたのが時間は不明ですが夜中だと思います 麻酔も効いていて看護師さんに「○○ちゃんかわいいね!」なんて言ってるときに婚約者のお母様がいらして・・・一瞬で麻酔も痛みも消えることが分かった瞬間です
あまりに流れが急で入院⇒緊急手術まで連絡できてなくて(‘◇’)ゞ婚約者も来てくれましたが、翌日には車いすでデイルームに出れる状態でした 婚約者も丸刈りと思っていたようですが腹部からのオペで済んだので髪もあり力は弱くとも話せるレベルでした
ちなみに入院直前に自宅に来てくれた際は直前に階段を這い上がりシャワーを浴びて待ったのは内緒です(‘◇’)ゞ一週間寝たきりで風呂浴びてないのは臭いかなと(‘◇’)ゞ
何とか退院し職場復帰し入籍 引っ越し(人事課の計らいで職員家族寮に入れました)そこで新婚旅行(北海道一週間)と結婚式も終え、落ち着いたころ頭の不調があることで何かあっては困ると右側(断裂したシャントは左側)に頭部から腹部へシャントを入れることにしました
期間は短く一週間程度の入院で済みましたが難しい手術だったそうです(後日医師から聞きました)
やはり支えるべきもの守るべきものがいると「負けてたまるか」と底力が湧くものですね( ´∀` )
そして最後に入院することになったのは紆余曲折を経て離婚した半年後になります(36歳の時です)
2011年3月離婚調停が終わり養育費以外の支払いや戸籍の届も終わり落ち着いたころ6月くらいから頭部にモヤっとした感覚が出始めました
当時 伯母の葬儀がありましたがまた水頭症再発で葬儀に救急車騒動を起こしては申し訳ないと思い欠席させていただきました 7月8月と頭部の嫌な感覚は続きましたがスローペースで動けば平気そうでしたので仕事は出ていました
8月も終盤に差し掛かり身内(母と兄夫婦とそのご両親)と山梨へ出かけました 旅は楽しかったのですが帰宅しいつもの腹筋100回を終えた瞬間でした 頭部で何かビキっとした嫌な感覚があり、「詰んだ」と思いつつ静かに横になっていると血管が切れたような感じもおさまりその夜は眠れました
翌朝 仕事へ行く前にゴミ出しに行こうと思い下を向いた瞬間 悩全体が圧迫され「水頭症再発」かと思ったのですが上体を起こしたところ脳の中心から弾けるように猛烈な痛みがありました
大声出せばゴミ出しで近所に出てる方を・・・と思いましたが 声も絞り出すようにしか出せなかったです(この時水頭症とは痛みの質が異なるため違うなとは感じました)
意識が絶えるなら諦めようと思いましたが痛み慣れしてるせいか意識が鮮明で放置して後遺症になるのはダメだと感じ自分で救急車を呼びました( ゚Д゚)
玄関の鍵を開けに行くのもフラフラでしたがなんとか救急車に乗り慶應病院へ運ばれました 買って間もないYシャツ(仕事着)でしたが動けず「切りますね」と言われたとたん貧乏性の私は自分で腕を上げ切られず済みました ← 退院時に着られてよかったです( ´∀` )
集中治療室へ運ばれる際に医師に聞いたところ「くも膜下出血」と聞き60代くらいの方がかかるものと思った病気に驚きました
集中治療室に運ばれた際には腕に常時装着するタイプの血圧計 さらに長い針で常時つなぐ点滴 集中治療室内でも常時看護師常駐の場所に入ったところで危険な状態なんだなと自覚できました 変に病院慣れしすぎてますね(‘◇’)ゞ
自分でも意識飛ばすとそのまま戻れなくなれそうな気がして意識を高め看護師さんと話しつつ離れて暮らす娘に手紙残すべきだったなと思ったのを覚えています
この夜には不思議なことがありました 薬のせいか少し眠りに落ちかけたときその病院で出会い亡くなった方たちが灰色で出てこられまして(‘◇’)ゞやっと眠れそうなときに 「邪魔(# ゚Д゚)」と思った瞬間 皆様が消えてしまい 入れ違いで彩色ある亡き祖父母が現れまして・・・
不思議と祖父母が現れたときは病院のベッドで横を向いて寝てるはずが生垣の向こうで祖父が微笑み私の横で祖母が何かを話してくれてました(何を言ってるかがTVの音消状態で不明でしたが少し長かったようで(‘◇’)ゞ)
飽きた私はかわいい看護師さんと話したくなりふと気づくと目覚めてました(‘◇’)ゞ祖母が伝えんとした言葉がなんだったのか?非常に気になりましたがあちらに行くわけにもいかずで(‘◇’)ゞいつか行くことになれば聞けるかな( ´∀` )
その後は集中治療室で危険な雰囲気ではありましたが、本人的には「どうせ終わるなら最後は楽しもう!」と割り切り?かわいい看護師さんとしゃべってたら元気が出てきてしまい、ふと気づくと一般病棟へ戻れることになりました
集中治療室で思ったのは最後にあの時あんなこと言って悪かったなという「謝罪」と「感謝」この気持ちだけでした そして娘に手紙を残したかった
一般病棟へ移りしばらくして20代から私の絵に額縁を選び取り付け(ほぼ専属)てくれてた画材屋のスタッフの子へお電話させていただきましたm(__)m(障害者福祉係のころ残業続きで体調を崩した際 大久保病院に「腎生検」の検査入院をしました その時にはこの子が見舞いに来てくれたんですね 本気で好きでした(n*´ω`*n) ← フラれた際に言ったことが気がかりでした)便箋も購入し娘への「手紙」も書いて安心したころには元気になり退院することになりまして(‘◇’)ゞ・・・
かわいい看護師さんからかってたら「病棟(一般)に来たときは高熱で死んじゃうかと思ったんですよ」なんて言われたときはまた生き残ってしまったと・・・
「先に逝ったみんなの分もうまいもの食べてうまい酒飲んでみんなが行けなかった世界まで突き進むぞ!」と決意を決め、気が向いたら私を通じて感じてくれたら嬉しいかなと(‘◇’)ゞ
これ以降は動ける体のうちに行きたい場所に行き、描きたい絵を描きいつ倒れても悔いなきようにと道の駅首都圏制覇(記念切符ある場所のみ)や御朱印(神社版&お寺版)を集めスケッチ旅行で各地に出かけいろいろしました( ´∀` )
いまは車椅子となりましたが各地に出品した展覧会の際にはできるだけ出かけていきます!
入院記は・・・増やさぬように生きたいですね(‘◇’)ゞそれでは失礼しますm(__)m