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    ​萩原回顧録 ~KATAWA伝~

私も人生50年近く生き抜くことが出来ました。それを記念して私の人生 半生記を記録した回顧録をここに記させていただきます。予定では幼年期編 → 少年期~青年期編 →社会人編 → 壮年期編と続け、番外編には面白い??かは分かりませんが昔話でもしようかな

( ´∀` )

 

    幼年期編

 私は昭和49年11月12日に東京の中野で生を受けました。小さい頃はよく女の子に間違われたり、可愛いと言われましたが(小さい時は誰でも言われるアルアルですね!)物心つくころには嫌で仕方なかったなぁ。←男は「かっこいい」女の子は「かわいい」と言われるべきと勝手に思い込んでました。今なら何でもOKなのですが(‘◇’)ゞ

私は幼稚園に途中入園でしたので、それまでは家で絵を描いたり教育TV見たりして過ごしていました。

当時8階建てマンションの4階に住んでいましたが、赤い非常ボタンが部屋の中にありました。子供が遊んで押さないように父がビニールテープでガチガチに張り付け押せないようにしてましたが、引っ越しの際にそれを私が見ていたのがいけなかったのでしょう。TVの影響を受けやすかったのでしょうか ロボットアニメでミサイルの発射ボタンを押すシーンに感化され、禁断のテープを剝がして押してしまいました(‘◇’)ゞ

その後はマンションを巻き込んで大変な騒ぎになったようですが、子供のいたずらとして消防車は帰ったようです。←もちろんこっぴどく怒られたのは言うまでもありません。(反省)そうかというとTVで見た槍を突くシーン(時代劇だったかな)が恰好よく見え、傘で襖をついて穴をあけ怒られたこともありました(続けて反省)父から「襖にシールを貼るな」と言われても貼っていいと言われたエリアを越えベタ張りしてまた怒られていました。←やっぱりどうしようもない問題児ですね(‘◇’)ゞ

昼間は父が仕事、夜は母が仕事で午前中は母も寝ていたため、トンデモナイことばかりしてました(入園前まで)反省してます。

一つ恥ずかしかったことがあったなぁ!母が寝ている午前中 天気も良くベランダに出て当時好きだった「ウルトラマンタロウ」の歌を熱唱してしまいました(‘◇’)ゞ幼稚園に入園する直前くらいでしたが、隣に住むおばさんに「かっちゃんお歌上手だねぇ」と言われ顔から火が出るくらいに恥ずかしかったぁ(‘◇’)ゞ ←ベランダの声も隣には聞こえないものと思ってました(‘◇’)ゞ

じつは幼稚園の年少頃までは歌が好きで歌手になりたいとか仮面ライダーみたいで格好いいと思い、白バイ警官に憧れてました。その話をしたら両親に大爆笑されてしまい、恥ずかしくなり二度と言うのはやめようと心に誓いました。結構繊細だったのかもしれません←今の私に爪の垢を煎じてほしいくらいです( ´∀` )

幼稚園は年少の冬頃に途中入園でしたが、イジメのターゲットになってしまい、年長の半ばくらいまでは面倒くさかった記憶があります。ここでも父が見ていた時代劇の言葉に影響され、「仏の顔も3度まで」と覚えてしまいました。砂場に穴を掘り水を貯め「そこに落ちろ」としつこく詰めよられたため「3回までだよ それ以上やるなら怒るけど約束できる?」と言い 落ちてあげました(深い水たまり程度ですが泥水ですね)むろん関係なく4回目に入ろうとした際「じゃあ怒るね( ´∀` )」と言ってクラス全員の男子でしたがとりあえず怒ってさしあげたのを覚えています。体の大きい兄と喧嘩していたので私と同程度の体格の人間に負ける気がしなかったんですね(‘◇’)ゞそれ以降は「安倍君こわい」と言われてしまいましたが、キャラ変したのかイジメもなくなり、なぜか幼稚園3強に入れられてしまいました。(呼び出し食らった時ちょっと嫌でした。また喧嘩しなきゃけないのかと思いましたが違っていてよかったです)←ちなみに18までは父方姓の「安倍」でした。

基本的に喧嘩したくないし、仲良く平和にしたいんですね。意地悪されたり理不尽なことされても様子を見て改心してくれればよいですが、調子に乗りすぎる方には(今でも数年は様子見ます)怒ってしまいますね。子供の頃は直情型だったのでダメダメですね。ある意味素直だったのかも(‘◇’)ゞ

甘いもの好きで味噌っ歯で甘ったれで泣き虫ときおり突拍子もないことを閃きやってみたくなる親からしたらやはり育てにくいタイプだったのでしょう。よく母からはキ〇ガイと呼ばれてました。あとで祖母が母へ怒っていたのを覚えています(‘◇’)ゞ

幼稚園では友達もできましたし楽しかったのですが、年長クラスの頃 両足ひざ下が紫斑病にかかり緊急入院させられてしまったことがあります。人に感染する病気とのことでしばらくは病室内でも隔離されていたため少し不安だった思いがあります

塗り絵をして時間を潰しつつ同部屋の仲間と話していたなぁ。そのうちに隔離がとれて周りと遊べましたが退院まで病室外に出られなかったのがちょっと残念。その後の入院生活(小学校以降の入院では)院内探検をよくしてました(‘◇’)ゞこのころまでが純粋に物事がすべて新鮮で興味あることばかりだったのを覚えています。小学生に上がってからは少し生意気な子になって見栄っ張りで強気な今考えるとちょっと「可愛い気のない子」だったように思います。と幼年期編はここまでにします。

 

      少年期~青年期編

※少年期~青年期編はつらい過去でもあるためお見苦しいと感じた方は飛ばしてください

 

ピカピカの小学校1年生友達ができるか少し不安でしたが、同じマンションの親友を得て毎日楽しく遊びまわっていました。そんなある日近所の発達障害のお兄さんを友達とからかって泣かせてしまったことがあります。子供時代とはいえ酷いことと大反省してますが、まさか半年もせず自分が身体障害者になり、からかわれる側になるとは思ってもいなかったです。 罰が当たったのかもしれないですね

6歳(小1)の冬に交通事故に遭い、3か月意識不明で(医者が見放すレベル)やっとリハビリから退院して自宅に戻れたのは事故から数えて10か月を経ていました。

事故に遭った場所が親戚の伯母の家の前で、運ばれたのも群馬県高崎市の病院 リハビリも高崎でした。東京の自宅に帰れたときは嬉しかったなぁ(まだほとんど歩けなかったけど)

ずっと病院で付き添ってもらった母には感謝と謝罪しかありません ← のちに私の事故が引き金で東京と高崎で分断され続けた両親は離婚しています。一つ悲しかったのは自宅に戻って3か月経たある深夜 父が寝ている私にのしかかり「そんなに言うなら克典を殴るぞ」と怒鳴っていました。瞬時に父と母が喧嘩をした流れでこの状況なのだろうと察したのですが、ずっと付き添ってくれた母が必ず助けてくれるだろうと私は眠いながら信じ安心していました。が残念なことに母は「殴れ!殴れるもんなら殴ってみろ!」としつこく父を煽り続けていました。父も引くに引けなくなっているのがよくわかる表情で「ほ 本当に殴るぞ 殴っていいのか」と何度も言いながらグーで握った拳を平手に替えて最後には煽り続ける母の言葉に任せ私をビンタし始めました(往復ビンタ16発)寝ていて起こされ いきなり往復ビンタされた私は父が離れ、母と喧嘩を再開したところへ出ていき、「そんなに酒飲んで暴れたいなら浴びるほど飲めば!!」とグラスに入った酒をぶっかけようとしました。

そこで喧嘩は収まり終息しましたが、当時は私も幼かったため単純に父が酒を飲み 母と喧嘩になった流れだと思っていました。実際は。。。 どこの家でも当たり前なのか確認したくなる性分の私は翌日 友人に相談しました。無論ですが夫婦げんかの巻き添えになることはあるが、数か月前に生死を分ける状況にあった我が子を「殴れ!殴ってみろ!!」と煽り続ける親 そして煽られたとはいえ 深夜に寝ている7歳の子の頬をビンタする親は???とのことでした。私も家庭の異常さを感じてしまい、非常に残念であり昨日のことのように思い出せるトラウマ案件です。(PTSDにあたるかもしれないですね)とはいえ私の事故が原因ということもあり家庭の揉め事には負い目しかありませんでしたので耐えようと決めていました。

翌年すでに母子家庭となったころ私は小学校3年生 夏に兄とお小遣いの貯金額について話題となりました。私は「お兄ちゃんの方がたくさんお金貯めているでしょ」と言ったところ、兄は「何言ってるんだ!お前の方がいっぱいお金持ってるだろ!お母さんより持ってるじゃないか!だって事故の時のほけ・・・」と言いかけたとき台所から母が飛んできて すかさず叫びました。

「T男!そのこと(保険金)は克典にだけは絶対言うんじゃないよ!言ったら承知しないからね!!」と言いました。私もなんとなくですが、「事故により保険金がでたのかなぁ」くらいにしか思いませんでしたが、私が考えるものではないし、親たちが私の今後の治療に使うものと思ったんですが、直後に母の言った一言が気になりました。兄に対して冷たい目で「いずれお前のものになるんだから」と。お金についてはどうでもよかったのですが、母にとって私は早く消える者そしてお金は兄のために残すものなのか。。。と思いました。

私自身この体(1種2級の身障)で長く生きたいと思えなかったため「25歳くらいまで生きられればいい」と思っていたため、お金は勝手にすればいい だけど母の予定として私は・・・」と考えてしまいました。事故直後 腕一本動かせない芋虫状態で人生をシミュレーションしたのですが、その後については復学後のイジメ 高校受験での拒否(偏差値足らずだったかも(‘◇’)ゞ) 就職の壁(現実には3年かけてコネも使わず自力で区役所に就職)など想定してました。しかしながらやはり子供でした。実際には自宅に戻り、復学後 家庭内で想定外のことばかりでした。母子家庭となり最初の正月 兄はスキーのため泊りで出かけ、私と母はテレビを見ていました。母が「これからはお父さんがいないけど親子で頑張ろうね」と言い、なんだかドラマみたいなセリフだなと思いましたが、10分後には母に電話がありその夜は一人になってしまいました。おそらく仕事だったのでしょうが、少し寂しい正月だったのを覚えています。

また兄が中学1年になってからは「お前が扉を開けっぱなしにしているから扉の端が腐るんだ!」と難癖(事実無根)をつけて襟首をつかまれ突き飛ばされ、蹴られていました。我が家は1Kのアパートでしたので木の扉のユニットバスでした。実際に扉を開けっぱなしていたのは母でしたし、むしろ通気をよくすることで腐るのを防止できたのではと思うのですが、兄には何を言っても無駄で「お前以外に誰がやるんだ!」の一点張りでした。毎日のように繰り返され、それがない日には「マンガ読むから部屋出てけ!」「昼寝するから部屋出てけ!」「ゲームするから部屋出てけ!」「勉強するから部屋出てけ」と言われ、静かにするからと言っても「なぁにぃ!!」と言われ、また襟首をつかまれ突き飛ばされ、蹴られていました。

日々繰り返されながら六畳一間の子供部屋を追い出されつつ、別れた父が二人にと買ってくれた勉強机も兄の荷物置き場になり使わせてはもらえない日々。たまに私の友人が遊びに来た際は、部屋を空けてはくれましたが、睨みつけて出ていくため友人たちも怖がる始末。日々の云われなき暴力に恐怖を覚えながら、動けない体で必死に抵抗しましたが、身長180㎝剣道初段の兄ですから悲しい結末でした。夜は2段ベッドの上で兄が下段で私が寝てましたが、無意識下で寝返りを打とうものなら上から「ドンッ!!」とベッドを叩かれ、「次やったら殺すぞ!」と言われ続けました。彼にしても無意識下で言っていたのかもしれませんが、昼間に続き夜中まででしたから。20歳過ぎて自分の部屋を持つまで安心して寝返りすら打てなくなったことを彼は知らないのでしょうね。

扉の件 私が言っても聞いてはくれない兄に真犯人である母から伝えて暴力をやめてくれるよう嘆願を続けましたが、母も自分に矛先が向くことを恐れたのでしょうか?「うるさい!それ以上言うとロボトミー手術を受けさせるよ!」と脅されてしまいました。正直 小学5年生に「ロボトミー手術」は理解できず、私は「ロボット・・ミー?」と母の口からSF的な言葉が出たことに??でしたがその後に出た言葉「そういうツテも知っているから。。。」と冷たい目で言われた際 この人 本気でやるな と思いゾッとしました。私もヤバい手術だとわかり「お母さんはその手術受けさせた方がいいと思うの?」と聞いたところ言葉を濁していました。おそらく良心の呵責が一片でもあったのでしょうか。

その夜は怖くて眠れず、やっと眠れたもののお恥ずかしいことですが漏らしてしまいました。当時 極東の組長の名刺など見せられていましたから、夜の仕事をしている母なら寝ている私を連れ出し処分することも、兄には後日具合が悪くなり遠くの病院へ入院させたとでも言えるなと本気で恐怖したためです。もちろんそれに対し事情を知らぬ兄は翌朝 私のことをゲラゲラ笑うだけでしたが、兄がいない隙に母からはひとこと言われました。「次やったら手術させるよ」と。

普通であれば絶望し、涙するところでしょうが、日々の絶望がありましたから母にも兄にも信頼し、相談し、頼ることはしないと覚悟を決めることが出来ました。日々の食卓においては私が話しかけることは許されず、TVを見ての雑談でさえ、話しかければ「うるさいバカ!黙れバカ!ふざけんなバカ!!」直後に母から「あんたは黙ってな!!」たわいない会話でさえそのような始末。私が話かけるタイミングや話題が悪いのかと小4から小5までいろいろ試しましたがダメでした。結果は「この人たちに話すことは無駄だし、何を言おうが逆に私が悪く言われるのが分かり、TVを見て静かに食事するようになりました。

悔しかったのは1年に1度の親戚一同が集まる親睦旅行や伯父伯母の家へ行く際は「克典お話ししないの?」などと言われ、家庭では申し分なくいたわっているフリをされ続けてきたことです。兄に至っては親戚の前でのみ必要以上に私の体を支えて見せ「いいお兄ちゃんねぇ!家でも良くしてくれているんでしょ!」などと言われていました。叔母がいなくなったとたん車の陰で「ちょっと来い!!」と言われ「調子に乗るんじゃねえぞ!」言われてました。私からすると「誰をダシにしていい人ぶってるんだ」と思いましたが、皆さんの前で喧嘩するわけにもいかず、したところでまた私が悪役にされるのも知れてましたので閉口してしまいました(‘◇’)ゞ

話は遡り私が小学校4年生の頃には母の付き合っている方とお会いする場面が生じました。母も子供に重度の身障児がいるなど元ヤクザの配管業の社長に知らせるのは緊張する場面だったのでしょう。鴨川シーワールドへの小旅行では家庭内ではありえないほど、私への気遣いで溢れていました。本当の意味合いには当時から気づいてましたが、付き合う相手でありパトロンでもある方に健気な女性を演じたいのだろうこと、そして私がその芝居を打てなかった際にはどう処分されるかも薄々感じてましたので(ロボトミー発言の9か月ほど前の出来事)私も必死にいい母がいる無邪気な子供を演じました。

お付き合いされているお相手は家庭に恵まれない方でしたので、おそらく健気な母親が支えている慎ましい家族愛に飢えていたのではないでしょうか?

日々繰り返される兄の暴言暴力により兄とは接点を最小限にすること 話しかけない、共有物を持たないことを心掛け、母にはこちらから要望してはならない 頼ることも危険(恩着せられる、言いがかりつけられるのは兄だけで懲り懲り)と思っていました。

兄は夜の0時過ぎても第九を大音量でベランダの窓全開にしてかけるのが好きでしたので、やめてくれるように伝えましたが(眠れないため)やはり「うるせぇ!!」の一言でした。(どちらのことなのでしょう?)いまだに年末の第九を聞くと。。。嫌な思い出が。

母とお付き合いされている方は私が小学校6年生の頃には徐々にですが、我が家にいるようになりましたので私は必死にじゃれついて懐いている体をとりました。なぜなら彼が家にいるときのみ兄はおとなしかったからです。彼が母と出かけたとたんに本性をさらけ出す兄には世渡りがうまいというか裏表が激しいというか。人間として私はカタワと呼ばれる人外の者かもしれませんが、ああはなりたくないと思いました。(全く尊敬できない)

母のお付き合いされている方ですが、仕事の現場から我が家へ来られた際 我が家でお風呂に入られていました。その頃から兄が「お前が入った後(お風呂へ)ドロドロになってる!!湯船の中で体洗ってるんだろ!お前は湯船に浸かるんじゃねえ!!」と言われました。「ああわかった」と言い、それ以降は2度と実家で湯船にはつからなくなりました。勿論これも事実無根な話で、私はきちんと体を洗ったあと湯船につかります。母 → 私 → 兄の順番でお風呂に入っていたものが母 → 私 → お付き合いされている彼 → 兄の順番に切り替わっていましたので、彼が湯船から上がってしばらくのち確認したところ湯船の件も真犯人が分かりました。

仕事の現場から帰り、油汚れのまま湯船に入っている方がいらっしゃったようです。母から兄に伝えるよう言いましたが、私には謝罪もなく(あったとしてもどうでもいい話ですので)「俺はシャワー主義だから」と実家で浴槽には入らなくなりました。

私が中学3年の冬1月半ばです。「受験勉強があるため勉強机を使わせてほしいし部屋を少し使いたい」と言いましたが「なんでてめえのために俺が部屋を空けてやらなきゃならねえんだ!お前が部屋を出て行け!!」と言われ、畳半畳ほどの玄関に折り畳み机を出し震えながら勉強したこともありました。

私が高校生になったころ父が二人で使えと電気シェーバーを購入してくれたことがありました。実は私 髭もそんなに伸びず、就職してからやっと剃るようになったほどで、ましてや兄と共有など御免被るお話でしたので、「ありがとう」とは言いましたが、電気シェーバーには触れもしませんでした。と ある日 兄から「お前が使ったんだろ!お前が掃除しろ!!」と言われ電気シェーバーを渡されました。またいつもの難癖付けて面倒なことを押し付けようとしているなと気づきはしましたが、シェーバーの構造を見ておくのはありかなと思い、1度だけ掃除して差し上げました。しかしほどなくしてまた兄から同じことを言われた際には「俺が使ってもいないのに何で俺が掃除しなきゃならないんだ!」と言いました。横にたまたま母とお付き合いされている彼がいて「悪い 俺が使ってた!」と言ったためこれも真犯人は。。。と思いましたが、兄は何も言わずスッと部屋を去りました。都合の悪いことはすべて私にぶつけられるのは非常に悔しく怒りを覚え続けましたが、今にして思えば「社会の縮図」を教えていただいていたのかなと思います。「障害者(カタワと呼ばれし者)はものを言うな。服従せよ。罪を被れ。言うことだけを聞いていろ」ということですね(‘Д’) 

のちに仕事をし始めてから仕事の押し付け パワハラ 冤罪 偏見 嫌というほど受けましたが、母と兄による冤罪・虐待・暴力が繰り返される日々に比べれば爪の垢ほども感じなくなっていましたから。

考えると95年 私が就職して間もない頃まで優生保護法もあった国ですので詮無いことなのでしょう。幸いなことに就職後は一部の方を除き、良くしてくださる方が多くいたため、私も人として生きていいんだということを教えていただきました。感謝してもしきれません。杉並区へ足を向けて寝られません。

一度だけですが本当に殺されかけてしまったことがありました。高校も卒業間近の夏でした。いつものように日曜の夜 母とそのお付き合いされている方はいませんでしたが、父より電話があり、母を出すよう言われました。その夜は父も酒を飲んでいるようでしたので翌日電話するよう伝えましたがやはり聞く耳を持ちません。

一度は電話を切りましたがその夜 0時を過ぎ 1時を過ぎ 2時を過ぎても戻らぬ母に対し我が子を放置しての夜遊びに堪忍袋の緒が切れたのでしょう。こちらの家に父が乗り込んできました。間が悪いことにそのタイミングで帰宅した母と父が遭ってしまい、私の面前にて母を殴ろうとし始めました。私としては自分の寝床の前で夜中の3時近くに揉め事をされるのも如何かと思い、「冷静になってお酒が抜けてから明日話し合いなよ」と父の手を止めたのですが、途端に「お前は親の言うことに逆らうのか!!」と今度は私に殴りかかり始めました。  

さすがにこちらも抵抗しましたが、唯一の利き手である右手を塞がれ、かろうじて反撃できた左手も封じられ、左顔面は腫れあがるほど殴られ続けました。(交通事故後に水頭症となったため頭から腹部へ管が埋め込まれていた場所)最後には首を絞められ意識を失いかけましたが、直前で父の肩に嚙みつき難を逃れました。翌朝見ると首には両方親指の跡がくっきりと残り、顔も腫れがひどく医者に行こうとしましたが、母からは恐ろしいひと言がありました。「医者には絶対行くんじゃないよ!」と もちろん行けば医者も殺人未遂について確認するでしょうし、家庭内での冤罪虐待について私が証言すれば母達の虐待が露見し信用を落とすことになるでしょう。それを恐れたのはすぐにわかりましたが、私としては自分を庇って殺されかけた我が子より世間体をとる母親は・・・でした。

その日は学校の球技大会で卒業アルバムに載せる集合写真を撮る日でしたが、コンシーラーで首を絞められた跡を消し、眼帯をして学校へ行きました。今もその写真を見ると思い出しますね(まさにPTSD心的外傷後ストレス障害とかいうものでしょうか)

二度とこの人を庇うのはやめた方がいいと思ったのを覚えています。「この家にいたら何されるかわからない 早く独立して家を出よう」当時 大学への推薦も取れたのですが、父からは「働いて社会の役に立たない奴は生きている資格がない」と言われてましたので推薦を蹴り、引き続き公務員試験へのチャレンジをすることにしました。定時制高校のため4年制であり3年生の時から受験していました。結果は×でしたが卒業後 東京アカデミー(公務員予備校)に通いながら、高校卒業の翌年無事合格できました。高校卒業前に運転免許証も取ってましたので就職後は車通勤が出来ました。あの父との事件と言葉がなければ私も大学生活を送っていたのかもしれませんが、一刻も早く働き仕事のスキルを磨き稼ぐこともアリかと思いまして。長々とつらい時期のお話が続いてしまいましたが楽しかったことや面白かったこと通常経験できないようなこともあり、それについてはまた別に記していきたいと思います。 ← 怒り哀しみ恨み言に聞こえてしまいそうですが、単純に若き日に精神力を鍛え上げていただいた貴重な時期だったと思います。まだ面白い話はありますがひとまず社会人編へ進みましょう。

 

       社会人編

 高校を卒業して翌春から東京アカデミーの代々木校に通い始めました。公務員試験(初級)の障害者枠では筆記試験はもちろん面接試験がかなり重要でした。人との対応(接客に関する部分)や同僚や上司と勤めていけるかを見られていたのでしょう。1年目2年目の受験では緊張してしどろもどろだった気がします(‘◇’)ゞのちに書き残す予定ですが、この予備校時代に出会った方が私の人生を大きく変えて下さりました。それは別編で書きましょう。

 当時 東京アカデミーに通う途中 代々木の駅前に正明堂という文房具屋があり通学時に代々木駅を降りた際 油彩用キャンバスを半額で売っていました。久々に道具を出して描いてみようと思い、絵を描き始めました。その絵が12月半ば第18回新日美展に入選してその月に公務員試験(3年目)にも合格しました( ´∀` ) ← それまでの3年の苦労が実りました。絵も初入選→会友推挙となり、やっと限界の壁を乗り越えることが出来ました。が正直 運のすべてを使い果たしてしまったかな(‘◇’)ゞ と ちょっと心配になりました

 ともあれ無事に20歳の春 杉並区役所に採用され、新日本美術協会にも入り社会人の仲間入りを果たしました。

 初めての職場は杉並区役所高井戸出張所でした。場所は高井戸児童館脇の建物が主張所でした。30年近く前でしたが、予備校時代のアルバイト(電話でアンケート調査)しか経験がなかったため初めての正規採用でした。ワクワクと緊張の連続でしたが、良き先輩良き後輩に恵まれ、仕事も順調でした。3年を過ぎて仕事も慣れた頃 足の手術のため長期入院することになり、職場を一時的に離れることになりました。小中学生時代の入院談を含めて入院時代のお話も別編で作りますので詳しくはそちらをご覧ください。

長い入院時代を経て途中 治療ミスにより再手術 病院のたらいまわしに遭い地獄のようでしたし、病院脱走も視野に入れた時期もあります。その入院中に出会った女性(同じ身障の方)と後に結婚しました。

退院後 職場復帰をした際には仲の良かった先輩や後輩も異動し いなくなってましたので寂しい反面 仕事を思い出すことが最重要と思い努力しました。

長期の入院生活になってしまうので入院前に人並み以上に窓口に出ていたことが功を奏したのか、勘を取り戻し始めた頃 同僚(私の教育係だった先輩の同期の方)から酷く睨まれたり無視をされることが多くなりました。

理由はのちに分かるのですがここでも冤罪(濡れ衣)ですね。その時は理由もわからずで職場の忘年会で上司から異動の話を持ち掛けられた際には針の筵の職場よりは良いと判断し異動を決めました

私の歓送迎会で入院前からいらした先輩がおしえてくれました。「私が治療を遅れさせ入院を長引かせ復帰を遅らせた」と 皆そう思っていると。

愕然としましたが、真実は左右の足の長さを整えるため左大腿骨を2か所切断し、装外固定器でつなぎながら骨を伸ばしてゆく8か月ほどかけるものでした。骨が固まらないうちに当時の助教授(担当医3名の中のトップ)が他2名の医師やPTの反対を押し切り立ち上がりのリハビリを強行したことが原因でした。大腿骨が異常に膨れ上がりレントゲンにより伸ばした骨が曲がってしまった状況でした。抗議してもほかの医師は助教授(I氏)には逆らえないとのこと。

縦社会の医療業界ですし、医療ミスは人が死なない限り裁判しても一般人(被害者側)が負けるのはわかってましたから閉口するしかありませんでした。その後 意味なく補装具の病院やほかの病院←すべて慶応病院の系列へたらいまわしのうえ、再手術そして再度リハビリとなりました。あまりにもひどい扱いで寝たきりの時代に病院脱走を本気で考えたほどでした。

歓送迎会において先輩から復帰後の異常な皆様の対応にやっと頭が追いついた私はそれまで長期入院により迷惑かけたことによる対応の変化と思いこんでいた自分も抜け作だなと思いつつ、いつか本当のことを記そうと思い、そのまま異動したことを覚えています。

2番目に異動した職場は障害者福祉係 就職後5年目のことでした。この職場ではあまりにいろいろあり過ぎて大変でした。

出張所では皆が同じ業務を行う流れでしたが、本庁舎での業務は担当を持ちその業務を全うするものでした。

全く勝手の異なる仕事で今までは窓口を動き回る仕事でしたが、デスクでの動かぬ仕事にもなかなか慣れませんでした。

医療証担当として電卓と領収書 電話対応に窓口対応でしたが、折り悪く都知事が変わり、制度変更も重なり覚えるたび計算式が変わり申請書も変わり毎日23時ごろまでが当たり前の職場でした。稀に19時半に帰宅できた時は嬉しかったなぁ

家は帰って寝るだけの感覚でした(実家暮らし時代)それでも日中は電話や窓口対応に追われ領収書の束がたまるばかりで消化しきれない時期でした。結果 夏ごろにはひたすら休日勤務して少しでも多く医療費の業務消化に明け暮れていました。

12月も近づいたある日 寒気がしながらも電卓を叩き続けていたところ調子が悪くなり、熱を出し早退させていただきました。

実はそれ以降 血尿が止まらなくなり医療機関に受診し検査入院になってしまいました。

結果はIGA腎症(慢性腎炎)とのことで無理しすぎてしまったことが良くなかったようです。

 少年時代から多岐に渡る手術や治療行為により痛みや多少の苦しみに慣れすぎてしまっていて限界を超えてしまったのかもしれません。その後は業務を減らしていただき、しばらく障害者福祉係には在籍させていただきましたが2年で異動となりました。やはり業務を減らしていただけたことは体の負担を減らすことはできましたが、その分の業務を周りに被らせてしまっているわけで、ここでも主張所同様に役立てず身体状況のため迷惑をかけてしまいました。それ以降はパワハラに当たる行為 昼休みの窓口当番でもないのに「電話に出ろ」と言われ実質昼ご飯を食べられない日もありました。その方は当時の上司 主査に当たる方ですし私以外には普通に対応する方(特に係長に対してはマメすぎるほどの仕事をされる方)

ですから皆様には彼の本質 上の者には誠実を見せ、下の者には・・・を見せなかったんですね。私は業務上迷惑をかけ続けてしまいましたので、ここでも閉口せざるえませんでした。

いずれにせよ居づらい環境となり、係長のおすすめもいただき異動することになりました。

 この職場では私の教育係をしていただいたW氏の昇進祝いの宴席(鬼無里という居酒屋)がありました。23時頃ちょうど私のいたテーブルに誰もいなくなったところで「私もお先に失礼します」そう伝えた直後の出来事です。I氏により「ちょっと待て!」こっちに来い!!」突然先輩に呼ばれ隣のテーブルに座らされ、口に含んだ瓶ビールを30数回にわたり吹きかけていただき「お前はクソだ!クソなんだよ!わかるか!このクソが!お前はクソなんだよ!」と言い続けられてしまいました。ご本人は酩酊状態にてご記憶にはないようですが。私自身上記のように業務上 迷惑をおかけしていたため「先輩にとって私はクソなんですね。わかりました」と引き下がりましたが1次会2次会にて別卓で会話していない状態でしたし、面食らってしまいました。翌朝には婚約者をディズニーランドへ連れていく予定でしたので、この出来事は翌日に尾をひき 楽しめないTDLとなってしまいました。今ではI氏も課長級の方になられたそうですが、後進の者への接し方 ともすれば死にたくなるような暴言失言(トラウマ)はお控えいただきたいものですね( ´∀` )

 

※この次の職場からは明るいお話や人生最大の危機や難関を乗り越えてゆく時代となりますので一旦幕を下ろします。また後半書き上げたのち掲載させていただきます。

           萩原回顧録 ~恋愛編~

 少し重い話の時代が続きましたので、社会人編 後半に入る前に恋愛編を少しお話ししましょう。それでは

 

 私の人生1番最初の初恋は幼稚園時代になります。当時 途中入園したこまどり幼稚園にてとても明るくて私とは正反対なキャラのAさんという子がいました。どことなく気になってしまう感覚だった気がします。(‘◇’)ゞ淡い初恋でしたが逸話が一つあります。身内に好きな子はいるかと言われ「いるよ」などと正直に答えたとたん親戚中から問い詰められ白状したとたん 皆にお相手の名前まで知れてしまい死ぬほど恥ずかしかったのをよく覚えてます( ´∀` ) ← お盆で親戚中集まっていたのがまずかったんですね(‘◇’)ゞ 甘かったです(以降の教訓となりました)

 さて小学校に上がって最初のクラスではMさんという子が気になる子でしたが、その冬に私は交通事故で入院してしまいましたので。。。

 交通事故に遭った後は身体に障害を負いましたのでお相手の気持ちや親御さんの気持ちを考慮すれば私は絶対 好きな人を作ってはいけないと思っていました。

そのためには人を好きにならない秘訣 見ない・触れない・近づかない を実行し始めました。

 ところがそんな気持ちになっていた小6の頃です。偽ラブレター事件がありました。なにやら私が書いたとの触れ込みで同級生のKさんあてで偽造されたラブレターが出回ったことがありました。もちろん筆跡も似ていないガサツなものだったことと体の悪い私があり得ないこと 誰も信じないだろうと放置していましたが、それがいけませんでした。まことしやかに触れこまれたようで周りが信じ、Kさん本人も信じ込んだようで。。。それを知らないのは私だけで(‘◇’)ゞ気づいたらクラスの女子を含め全員から無視されたり、意地悪されるようになりました。俗にいうイジメですね ( ´∀` ) 

 当時は今とはまるで違い繊細でしたのでつらいことをされましたが(掃除当番でホウキを隠され掃除させず、サボったことにされる。家庭科の時間 背後から針で刺される 図工で作成した作品を潰される 廊下の踊り場でホウキで襲撃される帰宅途中ボールをぶつけられる 理科の実験の実演を見せてもらえない)いずれも何があったか担任へ報告 連絡 相談しつつ、その場で切り返し続けたところイジメも収束していきました。具体的には針で刺していただいたところ腕を掴み現場を教師へお伝えし、潰された作品は納期までに同級生の半分の時間で完成させ、ホウキで襲撃されましても私は標準装備の杖で応戦したり、ボールについては来るとわかれば二度目は弾き返してましたね ( ´∀` ) 私が返したところ意地になり もう一度投げてきたところ職員室の窓に全力でボールをぶつけて皆さん怒られていたようです。    私は普通に歩いていただけなので後方で起きていることでしたが。   実験の実演は担任がしている際に人垣で壁を作られましたので反対側に移りましたが、また壁を作られましたので(当然先生の前でした(‘◇’)ゞ)それを先生の前で行っていただいたうえ、すかさず先生の脇に移動しVIP席で見させていただいたかな(‘◇’)ゞ ← 先生の前でそれをしていただくことで問題視されずに済む作戦でした(‘◇’)ゞなんだかイジメすら楽しんでいたのかも

 決定的なのはイジメの要因についてY君から伝えられた際に逆情報を流したことですね。Kさんへの気持ちは全くないこと むしろ長いイジメや無視で嫌気がさしていることを伝えたところ一気に沈静化しました(‘◇’)ゞ

しかしここで重要なことは私に好かれることは そこまで忌み嫌われることなんだと実感できたこと そして男子のイジメは単純直情型に対し、女子のイジメは巧妙に相手を貶め自分を正当化するような攻撃パターンとわかったことでした。

それまでは入院中の看護師さんの優しく細やかな配慮ですべてを包み込んでくれる存在 すべてを預けられる天使のイメージが女性でしたが、偽りの手紙から嵌められた事件ですが女性の怖さを知ることが出来た貴重な小6の出来事でした。

 中学へ入ったのちは相手の気持ちを考慮すれば「好きな人を作ってはいけない」から「女性は怖い」に切り替わっていたため、そこまで忌み嫌われるならこちらから避けてやるくらいに意地になってしまいました。とはいえ思春期に入る時代で小6の女子イジメ軍団の幹部の一人から からかわれたことによりなぜかその子(Gさん)が気になってしまい、プラトニックになってしまいました(‘◇’)ゞ

 女子を避ける気持ちと家庭内での地獄が相まって目つきが悪くなってしまった中1の頃これではいかんなと鏡を見て気づきました(‘◇’)ゞ恐ろしく人間嫌いになりつつGさんへのプラトニックな想い キャラ変しなきゃという気持ちから不思議ちゃん可愛いキャラを作り出した時期ですね。人に嫌われず なんだか応援したくなるような一生懸命キャラ これを作り印象付けることに専念してました。この体で生き抜く生存戦略でした。中学3年の頃Gさんへお手紙にて(こちらは本物の私からのお手紙でお気持ちをお伝えしましたが無論玉砕(‘◇’)ゞ

 中学を卒業して高校(家から徒歩で通える都立富士高の定時制)に入りました。

しばらくはGさんへの気持ちが残ってしまいましたがお相手にとってとても私に好かれるなどやはりご迷惑なのだと実感し諦めつつ、高校在学中Gさん含め、好きになった方はお二人でした(‘◇’)ゞ好いてはいけないと思いつつ惚れてしまう〇鹿な自分を恥じてしまいます・・・ホントは小5の時に人を好きにならないための奥義(見ない・触れない・近づかない)を編み出していたんですが、健常の方と同じ学校・同じ職場にいては実らぬ恋と知りながら落ちてしまう  困ったものですが、まだまだ続いていきます

 さて 高校を卒業したのちですが代々木の東京アカデミー公務員予備校へ通いだした頃です。車の免許で運転練習したくてもレンタカーを借りる金もなく、(父親の車は使いたくないですし、母親に言えば出してはもらえたでしょうがそれも嫌でしたし)アルバイト先も探しましたが、雇っていただけるところもない状況でした。そこで昼飯代を500円もらっていたので使わず貯めてレンタカー代にしてました(‘◇’)ゞ 

 その当時 代々木の駅前に正明堂という画材屋さんがありました。小5から中2まで絵画教室へ通っていたのを思い出しキャンバスを買い、埃をかぶっていた油彩道具を出して絵を描き始めました。もちろん昼食代からですが。

 自分で決めたこととはいえ、ずっと昼飯抜きでいたため昼休みは見てるとつらくなるのでひたすら寝て空腹をごまかしていました(‘◇’)ゞ

そんなある日の夏 全日制と定時制の合同で夏期講習が始まりました。

 いつも通り昼休みに寝ようとしたところ、二人組の女性から「ご飯食べないんですか?」と聞かれ 運転練習と画材を食費で賄うため食べないことを伝え早く寝ようとしたところ「お弁当を作ってきてあげる」と言われ、さすがに冗談でしょと思いつつ、静かに寝てしまいました。

 翌日お昼にまたお二人が来て下さり、本当におむすびを下さって感謝しつつ、いただきました。夏期講習の期間すべてお二人が作ってきていただき(大半はMさんのお母さんですが)あの夏を倒れず生き残れたのはお二人のおかげです。

絵を出品して「美術館に飾られたらみんなで見に行こう!」そう言われ頑張ったのですが主体展には落選してしまいました。

そして夏期講習も終わりを迎え、バラバラになるときにせめてものお礼とお二人に「海辺」と「バラ」の絵をそれぞれにお渡ししました。  お二人ともお付き合いされている方もおりましたので何ともなかったのですが やはり淡い恋を抱いていたお相手には「バラ」を送ってしまいました。

今でもそのお二方からのお礼と励ましのお手紙は大切に保管してあります。(「バラ」の絵のKさんからいただいたお手紙でどれだけ励まされ立ち上がれたか のちの絵画入選や公務員合格への礎になりました。

 東京アカデミーの授業は9月で終わりましたが障害者枠の公務員試験は11月でしたので勉強は続けながら蒼樹展へ出品(これも落選)公務員試験も2回落ち、絵も落選続きこのまま何もできない障害者で終わってしまうのか?自分への怒りとKさんからの手紙を読み、このまま潰れてたまるかと目覚め 今一度アルバイト探しを始めました。(二十数件目で私にもできる電話のアンケートが見つかり勤めることが出来ました

 稼いだ分でレンタカー代・画材代を増やしつつ、少しですが親にもお金を入れ第18回新日美展への出品と公務員試験に全集中しました。結果は「落水」という滝の絵が入選しつつ、新日本美術協会へ会友推挙 公務員にも合格し杉並区役所へ勤めることが決まりました。1994年の師走 二十歳の冬のことです

 95年 平成7年春 無事に杉並区役所へ入庁し、就職後は仕事を覚えることにいっぱいいっぱいな日々が続きました。足の成長が止まった段階で脚長差を治療する手術予定でしたので就職後3年目で長期の入院に入る形となりました。

 それまでにお世話になった一つ年下の役所では一期上にあたる先輩Yさん(旧姓Sさん)のことが本気で好きになってました。私とは正反対で仕事は優秀 いつも明るくまっすぐで真面目できちんと物事を言える聡明な方でした。それでいて可愛らしい方でした。周りが見えないくらい惚れてしまったのはあの方だけだった気がします(‘◇’)ゞ   ここでも致命的なのは自分の分際をわきまえず、健常の方へ好きになってしまう 人の迷惑考えられないアウトな方向に進んでました。

 しっかりとお断りされたのち入院生活に入ったのですが、そこまで好いてしまうとなかなか消しきれず入院した後も忘れることが出来ませんでした。入院前に親しくしていた先輩や後輩 上司がたくさんお見舞いに来ていただけて今考えてもものすごくありがたいことでした。術後の経過も落ち着いてリハビリ病院に転院する前夜 後輩が顔を出し「先輩が来てくれましたよ!」と言われ一瞬信じられなかったことは忘れられません。そこで慶応病院の上の階にあるレストランでみんなで食事をした際に「ハギィがいなくなってさびしくなったよ」そう言われ その夜先輩がいけてくれた花瓶のひまわりを見て光るものが目を伝ってしまいました(‘◇’)ゞ

 リハビリ病院では同じ年の可愛い方がPT(足のリハビリ)の担当でやはり同部屋のオジサンたちにより噂を立てられていたようですが、私の胸中には。。。

 入院中は水彩クレヨンで依頼を受けたペットや子供・風景や人物なんでも絵に描いて差し上げていたため(スケッチブック20冊分は使い切りました)お礼にお菓子やドリンク類をいただき絵の修行をしてましたが、入院前からの忘れえぬ人を全身全霊で絵に描きスケッチブックごと封印してしまいました(‘◇’)ゞ

 退院後は先輩にお会いできましたが、異動されるとのことでお別れする形になりました。先輩にも入院前に猫の絵を差し上げていた気がします(20代前半で一番好きだった絵)ほかにも同期の女性で聡明な明るく前向きで弟さんに少し障害のある方を好きになった時期があります。不思議と素直に話ができて心を開ける女性でした。障害を気にせず接して下さった素敵な方でした。しかし私の体ではやはり自信を持てず、踏み切ることが出来なく終わりました。

 退院後 翌年に再度入院となり入院が長期化(事情は回顧録本編にて掲載)再手術後ギプスで固められて寝たきりになった頃 家族ぐるみで付き合いのある3兄弟の末の妹(R)がお見舞いに来てくれました。ところが翌日より洗濯物等取りに来ていた母が来なくなり入れ代わりRが来てくれるようになりました。正直5つも若い当時19の娘さんが私の見舞いなどあり得ない状況と判断し、冷静に事情聴取(会話しながら冗談交じりに)したところ本命は兄であることがすぐに判明したため、傾きかけた思いを鎮火することが出来ました(‘◇’)ゞ

 親は私とくっつけたかったようですが、親のわかりやすい態度、過去の経験から私に来るなどあり得ないとの判断でこじれることなく済みました( ´∀` ) なぜか入院中 兄とRとの揉め事の相談まで受けてしまった時はちょっと格好悪かった気も。。。

 そこから退院して仕事復帰しつつ、また油彩も描き始めた頃 絵の額縁を付けに新宿の世界堂に行きました。そこで私の描いた猫の絵に興味を持ってくれた女の子(S)が私の絵を長く担当してくれた子です。私が障害者福祉係で無理をして体を壊し、検査入院した際には見舞いに来てくれたこともあり、上野動物園にもパンダを見に行った思い出があります。が お付き合いするには至らず ほかにお相手がとの展開でした(泣)

 かくして人を好きになるなど私には無謀なことだと絶望したのもこの頃(24)ですね(遅すぎ)「どうせ誰にも愛されるなどあり得ないことならもういいや」と切れたのがこの頃でこの体では誰も愛せんだろうと思いつつ、試しに風俗デビューしてみたのが退院直前の頃かな。そこで完全ではないにしろこの体でもできる方法を編み出し、少しだけ男として自信を持てるようになれた気がします。人によって考えは違うでしょうが私にとってはお姉さん方に感謝です。

 Sさんの件でやはり健常の方への思いは実らぬものと実感し、お互いの苦しみを理解しあえる、同じ歩調で生きていける、信じあえる方が良いと方向性を変えました。

その頃 喫茶店カフェ・せんじゅで1ヶ月の個展をさせていただきましたが、入院中に愛犬の絵を描いてあげた同じ障害の子をお誘いしてみました。それが後の元妻にあたるMさんですね。Mさんとは展覧会やお台場のテレコムセンター展望台での個展を通じ共に生きていける方と思い結婚の意思を固めました。

 収入は低かったんですが給与収入以外に自分の障害年金をあわせ福祉手当も含めて生活費に充てれば専業主婦にさせてあげられる計算でした。扶養手当などもあり実際は思うほど苦労せずに済みました。これはひとえに皆様のおかげです( ´∀` )

職員住宅家族寮にて生活をしましたが、同居後すぐに妊娠し、入籍は済ませていましたが結婚式の一か月前でしたから元義父はよく思われなかったようです。

縁がなかったのか稽留流産となり10年住めるはずの寮も老朽化で潰すことになり、家の購入を検討し始めました。正直私の体で不安要素はありましたが、住宅ローンを組み中古の戸建てを購入し引っ越しました。

この頃までがリア充期間だったんだと思います。人生の絶頂期ですね。結婚後2年を経て、家の購入と引っ越しを済ませたのちしばらくは平穏な日々でした。が従兄弟のYが家に遊びに来た翌日からそれまでリア充だった元妻の様子に異変が起こりました。私に「触れられたくない」と。「子供が欲しい」と。

 子供については流産した後は元妻の体が大事でしたので無理はさせず「二人で楽しみながら生きよう。できた時には家族3人(4人)で生きよう。できるかどうかは授かりものだから焦るのはやめよう」そう納得しあっていたはずだったのですが。

とはいえ女性としての気持ちもわかる気がしましたので妊活については針治療や投薬 私にできることは病院への付き添いだけでしたので必死でした。

 彼女の中隔子宮のこともあり出来づらいことも理解していたのですが私も流産直後に泌尿器科で検査しました。(顕微鏡で非常に元気なおたまじゃくしの満員電車状態でした)中隔子宮の治療(手術)をしたい元妻から申し出があり許可をし、手術は成功しました。その後の経過もよく医師の許可が出たため作ろうかという時期にはやはり「触られたくない・子供ができないなら死にたい・殺してほしい」とまで言われてしまいました。触れずに子供を作ることはできませんので(人工授精は痛い思いをさせてしまうと聞いてましたので)説得し行為をしすぐにできたのですがその後については語るのも記すのも苦しい思い出です。

以下はその後離婚に至るまでの概要です。実際は彼女の思い出し怒り(姑に言われたことへの思い出し怒り)からの家出(2週間から10ヶ月)や自殺未遂13回(理由;あんただったら止めてくれると思うから)でした。ほかにも庇って看病し続けた私に対して殴りかかる元義父 逐次元妻の状況を報告相談していた義母による暴言 たくさんありますが当時ヤフー相談へ掲載した内容を載せます。

以下はその一部です

※結婚4年目家を買い、私(夫)の親を招き、ごちそうして帰した後 夫婦2人で酒を飲み、飲みつぶれた妻が私ではない男の名前をつぶやきました。 ベッドに寝かそうとしたところ「見てセクシーでしょ!と股を開きだし しつこかったです(妻はそういうことを忌み嫌う性格だったのですが)さらに数か月後 ある日突然触られたくないとレス状態にされ、6か月後「あなたの子を産んであげたいの!産めないくらいなら死にたい」急にそんなことを言い出しました。触れずに子供は作れませんから納得させ、なんとか2度ほど行為し無事に子供はできました。もともと妻の子宮に異常があり妊娠しづらかった子供が、治療したとはいえ急にできたのも??でした。出産後は産後鬱とは思いましたが、言いがかりをつけては無期限の家出(最低2週間から最大10か月)子供が3歳になるまでずっとでしたから子供もたまに来る家と思っていたようで自分の生活の本拠地は妻の実家だと思っていたようです。そして3年たち10か月の家出から戻り殊勝なことを言っていたものの、すぐに言いがかりをつけまた家出をし、耐えきれなくなった私は離婚を決意するに至りました。ちなみに私も元妻も重度の身障ですが、私が役所勤めのため(給料と障害年金で)専業主婦にさせてました。ぎりぎりですが家のローンも光熱費・2人分の生命保険、携帯代や固定電話すべて私口座からの引き落としで月1万5千円ずつの小遣いにし、食費と雑費で現金10万彼女に渡してました。ちなみに彼女自身の障害年金は一切生活費に入れなかったため9年で。。。貯えていたからでしょうか?離婚したい別れたいというのはいつも元妻からでした。自殺未遂も13回(離婚までの回数)それを止めたり病院に連れて行ったり、仕事も残業も子供を風呂に入れ寝かしつけていた私は。。。

 ※娘はまだ学生でもあるため一部割愛させていただきました。

 

 無礼な態度で酩酊状態のまま殴りかかってきた元義父の件や病院のGCUでの元義母の暴言 数えきれないことがありましたが生まれた娘(?)もあと3年で20歳になるため養育費を払いきるまでの辛抱です。O家の人間とは二度と関わりたくない。公の場所でなくば名前も晒してやりたいくらいですがやめておきましょう(‘◇’)ゞ

 以降 女性は金と子種を取ったら男は用無しで捨ててしまうのか?言いたい放題やりたい放題 都合が悪くなればすべて人のせいにして逃げる そんな人ばかりではないと思いつつ、自分の年齢を鑑みると単独主義 草食系?絶食系?断食系で行くのがベストなんだろうなと思い始めています。すでに車いす生活となり自立した生活もこの群馬の家でいつまでできるかわかりませんし。巻き添えを作るわけにもいかないなと。

 唯一の正解はMさんは私と違い、無茶しながら仕事を続け満身創痍にはなっていないこと より長く娘といてやれること そのMさんに娘を託せたことかな

 収入はなく親も老齢になってくる時代に彼女たちがどう将来を切り開いてくれるかわかりませんが、私は子に資産を残すか処分するかの選択を決めたいと思います。

 6年前に遺言公正証書を作り娘に全てを譲ると作りましたが、それはすなわちMさんにO家の方に譲ることになるので「う~ん!」となるところでしょうか。

 せめて萩原方の法事や墓参りに娘が来たいと思う心があればよいのですが、萩原のすべてを否定し出て行った者の子ですし、萩原方の祖父の死(私の父)を放ってしまい、彼女らの忌み嫌う祖母(私の母)が亡くなった際には当然 拒否るだろうなぁ(‘◇’)ゞ

誰かいい人でもいたら全財産ゆずればいいか( ´∀` ) 

「親の因果が子に報う」 娘にはかわいそうですが、やはり・・・・・

いずれにせよM(元妻)が私のすべてを受け入れてくれた唯一無二の女性でしたから

感謝とともに平穏に生きていただきたいと思います( ´∀` )

 

・・・・・

 

あっ!離婚後のお話もあったのを忘れてました(‘◇’)ゞ

離婚後 半年を経た時 出勤前にくも膜下出血となり緊急入院することになりました。(一人暮らしですが救急車を呼べたのが幸いでした)それ以降は徐々に体の動きが(左足の動きが鈍くなり、家の階段が登れなくなったこともありました)悪くなり定年までもたないかなと思うようになりました。

 仕事をしながら芸術活動(個展や公募展出品)を続け、幾人かお付き合いしましたが障害者と健常者はやはり厳しいという実例(その方は女性でしたが健常の方と婚姻後 子とともに捨てられたケース)や私自身も親が納得してくれる健常の方が・・・と言われることもあり一人が一番かなと( ´∀` ) なぜだか私に関わりあるお若い方もいるにはいますが・・・

 障害を負って以降この身一つで行けるとこまで生きたのち あとは静かに絶えたいなと。それまでに食いたいものを食い(粗食ですが)飲みたい酒を飲み(安いパック酒です)描きたい絵を描き続けたいと思います

 つまらぬ いち障害者のお話ですがこんな感じで今も一人生きておりま

 

 

   ここからは回顧録~KATAWA伝~ 後編になります

 

 次の職場(3つ目)は納税課区外納税係へ配属になりました。この職場に異動したときはいきなり大変でした。婚約が決まり歓送迎会のごあいさつで誰も私の話など聞いてないだろうとタカをくくって「9月には結婚しますのでお休みなどでご迷惑おかけしますがよろしくお願いします」と言ったとたん、皆さんにビックリされてしまいました。聞いてる人がいたことにこちらもビックリでした(‘◇’)ゞ

 一週間ほど新しい職場にて教わりながら仕事をしていたところ、職場で頭に違和感を覚え気持ち悪くなり地下の厚生室で休んでいました。どうにもならず午後有休をとり慶応病院に行きましたが、疲れのため2.3日で治ると言われ翌日休みをいただきました。

 脳全体を直接締め付けるような痛みが24時間続き、起き上がることも困難な状態になりました。初診より1週間たち、再度診察していただいたところ「原因がわからない2.3日様子を見て治らなければまた来るように」とのことでした。 

 その頃には物が2重に見えるようになり再度病院に行き、即入院となってしまいました。病棟の公衆電話で職場に電話していたところ意識を失うほどの痛みに襲われ、かろうじて声を上げることが出来て救われました。

 脳圧も異常に高く水頭症の再発と左頭部から腹部へのシャント(管)断裂が重なり頭に髄液が溜まった状況でした。右側にシャントを新たに入れるか腹部から背中にシャントを通すかで迷われたようですが、医師の判断で腹部から背中にシャントを通し回復しました。

 異動したての職場で1か月近く休んでしまったり結婚の挨拶の2週間後に酷い状況になり、婚約解消になるかの状況でしたがお相手が付いてきてくれ7月入籍・同居9月結婚式となりました。

 じつはその間の8月にお相手が妊娠し期待に胸を膨らませたのですが、残念ながら稽留流産となってしまいました。困難を乗り越え結婚式までたどり着けたときは嬉しかったなぁ。

 あっ話を戻しまして区外納税係では催告や督促 財産調査ちょっとだけ差し押さえも手伝えたかな。右側頭部から腹部へのシャント手術(再手術)もあり、この職場も2年で異動となりました(‘◇’)ゞここまでが5年(出張所)→2年(障害者福祉)→2年(区外納税)で勤務しました。

 次の勤務先は介護保険課認定係(4つ目)です。こちらは介護保険の申請をした方の認定調査員を手配する業務でした。区内の担当や区外の担当それ以外にも認定審査会など多忙でしたが、同時期に職員住宅が老朽化により取り壊されるとのことで、新居を探さなくてはならなくなりました。(当初は10年住めるとのことで話が急でした)

 独身時代から貯めてきた貯金と妻からの資金 私の母からの援助で職場から近く立地も良い中古の戸建てを購入しました。

 私の体で住宅ローンを組めたのはやはり公務員の信用があったからでしょうか(団体信用保険に入れず、土地を担保に借り入れが出来ました)ただし土地を担保にした借り入れゆえ妻には 不安にさせていたようです。実際には私の生命保険でローン相殺して余りある範囲で購入した物件なのですが・・・そのためでしょうか家の購入後ある頃を境に妻の精神が不安定になり始めました。

 詳細は先の恋愛編に掲載済みなので省略しますが多忙な業務の中で妻が具合悪い時には昼休みコンビニでお弁当を買い、家に届け食べさせてから職場に戻り残業してました。この頃 職場で相方だった方も精神的に病を患っておられる方でしたのでよく妻の症状や薬についてアドバイスいただきました。Yさんには大変感謝しています。

 この職場は5年ほど在籍しましたが最後の方では妻は帰ってこない状況で異動シーズンには「どうせ一人暮らしならせめて仕事に打ち込んで稼いだ分 妻に仕送りしなきゃ」と残業の多い職場に異動を決めました。そして異動した先が国保給付係(5つ目)です。

 当初は聞いていた通り残業の多い不当利得に関する業務で、ひたすら残業が多い状態でしたが、この職場に来たとたん妻が戻ってきました(10か月ぶりでした)

 離れていた娘も戻りましたが仕事に行く前や帰宅後のお風呂入れや寝かしつけ遊んでやる時間も短かったなぁ。それでも娘の笑顔があれば妻の看病(通院介助)子供発達センターへの相談や残業続きも苦にならなかったです。

 最終的には別れる形になりましたが、この頃までが必死にがむしゃらに生きていた時代です。給付係2年目の終盤3月に離婚し、3年目の9月にくも膜下出血で緊急入院しました(離婚し緊張の糸が切れたと同時に血管まで切れてしまいました(‘◇’)ゞ)

 2ヶ月ほど前から頭部に違和感があったため慎重に生活していましたが、いつも通り腹筋1000回を終えたあと嫌な違和感があり翌日 朝 救急車で運ばれてしまいました。

 自分で救急車を呼べたのでなんとか助かりました。退院後 残業せずにできる業務 国保受給者証の業務と電話受付に変わりましたが、ここでは6年の勤務をさせていただきました。この職場では離婚し、くも膜下出血にもなりましたが 退院直後のクリスマスに世田谷区教育長賞をいただくことが出来ました( ´∀` )長らく絵画での活動をしていましたが25からスランプを脱出するまでに11年ほどかかってしまいました(二十歳で新日美展デビュー そこから16年経過してました(‘◇’)ゞ)

 次の職場では庁外の荻窪福祉事務所(6つ目)に異動しました。ここでは生活保護の方の医療券を担当させていただきました。かなり忙しい職場でしたが、同僚の方々に手助けいただきながら5年間過ごすことが出来ました。ここではいろんな方がいらっしゃり職員がお客様(区民の方)に殴られ警察が来たり、ほかでは経験ないことが何度かありました。

 4年目の冬には父が亡くなり(仙台へ赴き最後は病院へ連れていき入院させることが出来ましたし、お墓選びも母と選んであげられました)最後には「ありがとう」と言われたのがすごく残っています。できれば私の娘も葬儀に参加させたかったのですが拒否られてしまって(‘◇’)ゞいつか墓参りでもしてくれるかな(‘◇’)ゞ

 くも膜下出血以降 徐々に足が動きづらくなり福祉事務所時代に定年まで勤めきれない予感がしていました。そのため引退後自宅を賃貸に出せるよう家にある絵を保管する場所の確保に動き始めていました。

 自宅より1時間半以内で土地は安く保管倉庫をしっかり作ること そして成田市成井の住宅地に平坦な更地でインターやコンビニも近いところに土地を買えました。倉庫も絵の保管も完了し、異動の時期が来た頃に異変が起きました。

 それまでは転んでもすぐに立ち上がれたのですが、杖やつかまらないと立てなくなり始めました。(この頃は立ち上がれさえすればまだ平気と楽観的でした)それでも杖なしで少しの距離を歩けるくらいに回復はしていました。

 そして最後の職場 区民課区民係(7つ目)へ異動しましたのが令和2年の春のことです。ちょうどコロナが流行りだした頃でマスクの時代でした。異動したてでしたが、最後の職場になるような予感を当初から感じていたのを覚えています。

 初めて就職したときの出張所と同じ区民生活部で懐かしい業務に感じていました。不器用でミスをしがちな一年目でしたが、徐々に適応しながら職場に慣れ始めたのは1年目の終わり頃でしょうか 職場で半月に3度も転倒してしまいました。

 その時に初めて自分が地べたから自力で立ち上がれなくなっていることに気づきました。さすがに厳しい状態と判断され私の上司より障害者施策課の係長と協議していただき、リハビリのクリニックをご紹介していただきました。そちらへの通院リハビリしている頃にも数回転倒することがあり、軽い尻もちでしたが腰椎を傷めてしまいました。

 あまりにも痛み職場での移動も厳しくなり、大きな病院できちんと検査をし診てもらうことになりました。腰椎の一部が欠けていたことが原因でしたが、手術するレベルではないとのことで、そのまま勤務しましたが、再度 転倒した際に激痛でもう一度転倒すれば危険と判断し、職場で車椅子の使用をさせていただきました。

 事前に車椅子を購入していたため即座に対応できました。この頃には引退も早めになると思い、父の遺産を用いて引退後の移住先を購入していました。(身内はただの別荘と思っていたようですが)

 移住先の準備も整い、このまま無理をし、職場で倒れ歩けなくなり終わるくらいなら(職場で救急車騒動になり、ご迷惑かけるくらいなら)いま引退してその後の自立した生活場所・生活基盤を自力で整えるべきと考え、区民課3年目の12月末 27年9ヶ月に及んだ公務員生活にピリオドを打つに至りました。令和4年12月末のことです

 ちょうど区民課に異動した頃 コロナ禍でもあり母の歌舞伎町の店も休業している期間が長く、母をうまい料理の店や一人旅で出かけていた場所へ息抜きに連れて行ったりしてました。移住先の整備や親戚の家に多く連れて行っていたため、かつてのわだかまりも解けていましたので、移住先にはよく親戚の叔父叔母とともに遊びに来ていただいています。

 一つ忘れていました。今は退職金にてかつての杉並の家をリフォームし、賃貸収入と障害年金にて細い生活ですが、かろうじて生活させていただいています。この先どこまで歩けるか自立した生活を歩めるか見当つきませんが もう少しだけ生きていきたいと思います。

   

    ~私に関係したすべての皆様へ感謝します~

            2024年1月20日   萩原 克典

連絡先

​安中市鷺宮にある桑の実の郷ギャラリー(自宅兼ギャラリーには作品を常設展示してありますのでお気軽にお立ち寄りください。ご来場前には前日までにメールにてご連絡いただくようお願いします

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